神性-ロゴス

ロゴスは理性と法則の統一体

統一思想は、ロゴスを「言(ことば)」というとき、神の思考、構想、計画を意味し、ロゴスを「理法」というとき、それは理性と法則を意味します。

 

ロゴスが神の「言・構想」であるならそれは神の思考の結果物となります。

それは一種の設計図です。

 

私たちが建物を造るとき、まず建物に対する詳細な設計図を作成するように、神が万物を創造されるときにも、まず万物一つ一つの創造に関する具体的な青写真または計画が作られるようになります。

これがまさにロゴスなのです。

 

原理的に言うなら、神の内的性相(理性)と内的形状(法則)が授受作用をなした結果物がロゴスです。(ロゴス内の理性はただ自由性を持った思考力であり、知的能力)

 

理性と法則の統一としてのロゴスによって万物が創造されたために、すべての被造物には理性的要素と法則的要素が統一的に含まれています。

したがって万物が存在し運動するとき、必ずこの両者が統一的に作用するのです。

 

ただし低次元の万物であればあるほど、法則的要素がより多く作用し、高次元であればあるほど、理性的要素がより多く作用しています。


最も低次元である鉱物においては、法則的要素だけで理性的要素は全くないようであり、最も高次元である人間においては、理性的要素だけで法則的要素は全くないようでもありますが、実際は両者共に理性的要素および法測的要素が統一的に作用しているのです。


したがって万物の存在と運動は、自由性(理性)と必然性(法則)の統一であり、目的性と機械性の統一なのです。

すなわち必然性の中に自由性が作用し、機械性の中に目的性が作用するのです。

 

ところで今まで、自由と必然の関係は二律背反の関係にあるように理解されてきました。それはあたかも解放と拘束が正反対の概念であるように、自由と必然も正反対の概念であるように感じられたためなのです。


しかし統一思想は、ロゴスの概念に関して、理性と法則を二律背反の関係とは見ないで、むしろ統一の関係と見るのです。

それは列車がレールの上を走ることと同じなのです。

 

列車がレールの上を走るということは必ず守らなければならない規則(法則)であって、万一、レールから外れると、列車自体が破壊されるだけではなく、近隣の人々や建物にも被害を与えるのです。

ゆえに列車は必ずレールの上を走らなければならないのです。

そのような観点から見て、列車の運行は順法的であり、必然的なのです。

しかし、いくらレールの上を走るといっても、速く走るか、ゆっくり走るかは自由なのです。

したがって列車の運行は全く必然的なもののように思われますが、実際は自由性と必然性の統一になっているのです。

 

もう一つの例を挙げて説明します。

自動車の運転手は青信号の時には前進し、赤信号の時には停止するのですが、これは交通規則として誰もが守らなければならない必然性なのです。

しかし、いったん青信号になったのちには、交通安全に支障にならない限り、速度は自由に調整することができるのです。

したがって自動車の運転も自由性と必然性の統一なのです。

 

同様にロゴスにおける理性(自由性)と法則(必然性)も統一の関係にあるのです。

ロゴスが理性と法則の統一であるために、ロゴスを通じて創造された万物は、大きくは天体から、小さくは原子に至るまで、すべて例外なく、理性と法則の統一的存在になっています。

 

すなわち万物は、すべて理性と法則、自由性と必然性、目的性と機械性の統一によって存在し、運動し、発展しているのです。

 

自由と放縦

「自由」とは、厳密な意味では選択の自由になりますが、その選択は”理性”によってなされます。

したがって、自由は理性から出発して実践に移るのです。

 

そのとき、自由を実践しようとする心が生まれますが、それが自由意志であり、その意志によって自由が実践されれば、その実践行為が自由行動になります。


このように理性の自由による選択や、自由意志や、自由行動はみな恣意的なものであってはならず、必ず原理内で、すなわち法則(価値法則)の枠の中で、必然性との統一のもとでなされなければならないのです。

 

つまり、自由は理性の自由であり、理性は法則との統一のもとでのみ作用するようになっています。

 

したがって本然の自由は”理法”すなわちロゴスの中でのみ成立することができ、ロゴスを離れては存立することはできないのです。

 

よく法則は自由を拘束するもののように考えられていますが、それは法則と自由の原理的な意味を知らないことからくる錯覚なのです。


ところで、本然の法則や自由はみな愛の実現のためのものなので、愛の中での法則であり自由なのです。

真の愛は生命と喜びの源泉です。

したがって、本然の世界では、喜びの中で、法則に従いながら自由に行動するのです。

それは、ロゴスが心情を土台として形成されているためなのです。

 

ロゴスを離れた恣意的な思考や恣意的な行動は似非自由であり、それはまさに放縦です。

自由と放縦はその意味が全く異なります。

自由は善の結果をもたらす建設的な概念ですが、放縦は悪の結果をもたらす破壊的な概念です。

 

そのように自由と放縦は厳密に区別されるものなのですが、よく混同されたり、錯覚されています。

それは自由の真の根拠であるロゴスに関する理解がないためなのです。

 

ロゴスの意味を正しく理解すれば、自由の真の意味を知るようになり、したがって自由の名のもとであらゆる放縦が避けられ、ついには社会混乱の収拾も可能になるのです。

 

このようにロゴスに関する理論も、現実問題の解決のまた一つの基準になるのです。

 

ロゴスおよび心情と愛

すでに明らかにしたように、ロゴスは言または構想であると同時に理法でもありますが、言(構想)と理法は別のものではありません。

言の中にその一部として理法が含まれているのです。

 

創造に関する神様の無限なる量と種類を内容とする言の中の小さな一部分が理法なのであり、それは言の中の万物の相互作用または相互関係の基準に関する部分なのです。


また、言と理法は別個のものではないばかりでなく、言の土台となっている心情は、同時の理法の土台にもなっているのです。

創造における神様の心情が構想と理法の共通基礎となっているのです。

心情は愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動です。

心情が創造において言と理法の土台となっているということは、被造物全体の構造、存在、変化、運動、発展など、すべての現象が、愛の衝動によって支えられていることを意味します。

 

したがって自然法則であれ、価値法則であれ、必ず背後に愛が作用しており、また作用しなければならないのです。

 

一般的に自然法則は物理化学的な法則だけであると理解されていますが、それは不完全な理解であって、必ずそこには、たとえそれぞれ次元は異なるとしても、愛が作用しているのです。

人間相互間の価値法則(規範)には、愛がより顕著に作用しなければならないのは言うまでもありません。


先にロゴスの解説において、主として理性と法則、したがって自由性と必然性に関して扱いましたが、理法の作用においては、理法それ自体に劣らず愛が重要であり、愛は重要度において理法を凌駕することさえあるのです。


愛のない理法だけの生活は、規律の中だけで生きる兵営のように、冷えやすく、中身のないしいなのようにしおれやすいものなのです。

 

温かい愛の中で守られる理法の生活においてのみ、初めて百合が咲き乱れ、蝶や蜂が群舞する春の園の平和が訪れてくるのです。