被造物の存在様相は運動ですが、それは時間、空間内における物理的運動をいます。
それゆえ存在様相は被造世界のみに成立する空間的な概念です。
神は絶対者であられるので、神が時空的性格を帯びた運動をするということはありえません。
したがって、原相の存在様相という概念は成立しないのですが、被造世界の存在様相に対応する原型は原相内にあるのです。
被造世界において、主体と対象の関係にある二つの要素または個体が目的を中心として授受作用をすれば、その結果として合性体が生じると同時に運動が始まります。
その際、中心の目的は存在者ではありません。
また合性体は授受作用の結果として生じる状態にすぎません。
したがって授受作用において、実際に運動に参加するのは主体と対象の二つの要素(個体)だけです。
そのとき授受作用の中心(目的)は主体と対象の中間にあるのではなく、主体の中にあります。
したがって授受作用による運動は、主体を中心とした円環運動として現れるようになります。
例えば原子においては電子が核を中心に回っており、太陽系において惑星が太陽を中心に回っています。
授受作用の中心である目的が核や太陽にあるからです。
それでは被造世界において、主体と対象はなぜこのような運動を行うのでしょうか。
それが性相と形状の授受作用の円満性、円和性、円滑性です。
すなわち原相では性相と形状が心情(目的)を中心として円満な授受作用をなしていますが、この授受作用の円満性あるいは円和性が、時間・空間の世界に象徴的に展開されたのがまさに円環運動なのです。
神は無形で一定の姿はありません。
神は無形にして無限形なのです。
しかし代表的な形があるとするならば、それは球形です。
原相は円形あるいは球形で表されるのです。
万物も原相に似て、すべて基本的な形態は球形を成しています。
原子や地球、月、太陽、星などはみな球形をしています。
植物の種や、動物の卵も、基本的にみな球形なのです。
万物の運動が円環運動であるというのは、原相の授受作用の円和性に似ているからですが、それはまた原相自体の球形性あるいは円形性に似ているからでもあるのです。
主体と対象が授受作用するとき円環運動がなされますが、それにはもう一つの理由があります。
それは円環運動が授受作用の表現形態であるからです。
もし対象が主体を中心に回らないで直線的に運動するならば、やがて対象は主体から離れてしまうので、主体と対象は授受作用ができなくなってしまいます。
授受作用ができなければ被造物は存在できなくなります。
授受作用によってのみ、生存(存続)と繁殖(発展)と統一の力が現れるからです。
したがって主体と対象が授受作用を行うために、対象は主体と関係をもたなければならず、そのためには対象は主体の周りを回らざるをえないのです。
いかなる個体であれ、円環運動をなすに際して、必ず自転運動と公転運動という二通りの運動を同時に行うようになります。
すべての個体は個性真理体でありながら、連体でもあるからです。
つまり、すべての個体は内的に授受作用を行いながら、同時に外的にも授受作用を行っています。
そのとき、この二つの授受作用に対応する、二通りの円環運動が生じるのです。
内的授受作用による円環運動が自転運動であり、外的授受作用による円環運動が公転運動です。
例えば地球は自転しながら太陽を中心に公転しており、電子も自転しながら原子核を中心に公転しています。
被造物において、このように自転運動と公転運動が同時に行われるのは、万物の内外の運動(授受作用)が原相における内的授受作用の円和性と外的授受作用の円和性に似ているからです。
ところで被造世界において、実際に空間的な円環運動を行っているのは、天体と原子内の素粒子だけであり、その他の万物においては文字どおりの円環運動をしていない場合があります。
例えば植物は一定の位置に固定されているのであり、動物も動いてはいますが、必ずしも円環運動をしているわけではありません。しかしそのような場合も、存在様相の基本形はやはり円環運動であり、ただそれが変形されて他の形態を取るようになっているのにすぎません。
そのように被造物の円環運動が変形されている理由は、各被造物の創造目的すなわち全体目的と個体目的を効果的に達成するためなのです。
そして実際に現れる円形運動の形態には、基本的円環運動、変形した円環運動、精神的円環運動という三つの類型があります。
基本的円環運動には、空間的円環運動と時間的円環運動の二類型があります。
①空間的円環運動
これは物理的、反復的な円環運動であり、天体と素粒子の自転運動および公転運動がその例です。
すなわち原相内の自同的授受作用が空間性を帯びて現れたものです。
文字どおりの円環運動ですが、常にほとんど同じ軌道を回っているので反復運動でもあります。
②時間的円環運動(螺旋形運動)
これは生物のライフサイクル(生活史)の反復と継代現象のことをいいます。
植物の場合、一粒の種から芽が出て、成長し、花を咲かせ、果実(新しい種)を実らせますが、そのとき、新しい種は初めの種より数が増えています。
この種が再び地に蒔かれれば、芽を出し、成長し、また新しい果実(種)を実らせます。
動物の場合も同様です。
受精卵が成長して子になり、子が成長して親になり、再び新しい受精卵ができます。
この新しい受精卵がまた大きくなって親になります。
このように植物も、動物も、ライフサイクルを繰り返しながら、すなわち代を受け継ぎながら種族を保存しているのです。
この運動は目的性、時間性、段階性を伴うのがその特徴です。
これを特に螺旋形運動といいます。
このような時間的円環運動は、原相内の発展的授受作用が主として時間的、継起的な性格を帯びて現れたものです。
変形した円環運動には、固定性運動と代替性運動の二つの類型があります。
①固定性運動
これは、円環運動が一個体の創造目的を遂行するために固定化されたものです。
あたかも静止衛星が、その目的遂行のために、一定の位置に固定されているのと同じです。人間が住んでいる地球の場合、地球を構成している多くの原子が勝手に運動するならば、地球はガス状態になってしまいます。
そうすると、そこに人間は住むことができません。
地球が人間の住む所となるためには、原子と原子が固く結合して、固定され、固い地殻を形成しなければなりません。
したがって地球を構成している原子は、人間の住む環境を造るために(全体目的のために)、円環運動の形態を変えて固定化されざるをえないのです。
生物体の各組織を構成している細胞も、みな互いに結合し、固定されています。
例えば動物の心臓をつくっている細胞は互いに固く結合していますが、これは心臓の機能である伸縮作用(全体目的)をなすためです。
もし細胞同士が互いに離れて運動するとすれば、心臓はその機能を果たすことができません。
②代替性運動
動物においては、体を構成している細胞が直接、円環運動をしない代わりに、血液とリンパが体内を巡って細胞と細胞を連結させており、それによって細胞が互いに円環運動をなすのと同じ効果を現しています。
植物においても、導管と師管を通じて養分が体内を巡って細胞と細胞を連結させています。
そうすることによって、細胞が円環運動をなすのと同じ効果を現しているのです。
このように血液とリンパ、また養分が流通しながら、細胞の円環運動を代身することを代替性円環運動あるいは代替性運動といいます。
また地球においても、マントルの対流とかプレート(地球表面の岩盤)の移動なども、代替性運動と見ることができます。
また経済生活における商品や貨幣の流通も、やはり代替性運動に属する円環運動と見ることができます。
人間において、生心と肉心の授受作用は物理的な円環運動ではありません。
生心の願うままに肉心が呼応するという意味で、精神的な円環運動なのです。
また家庭や社会における人間と人間の円満な授受作用は、主体が願うように対象が呼応するという意味で、やはり精神的な円環運動です。
例えば父母と子女の授受作用において、父母が子女を愛してよく指導すれば、子女は父母の意によく従うようになります。
そのとき、子女が父母の意によく従うことが精神的な円環運動なのです。
生命とは、原理の自律性と主管性のことであり、生物体に潜在する意識性をもつエネルギー(またはエネルギーをもつ意識)のことです。
生物の成長は、この生命すなわち原理の自律性と主管性に基因しますが、それは生物体に潜在しています。
意識とエネルギーの統一物なので、この意識性エネルギーの運動がまさに生命運動なのです。
自律性とは、他から強いられるのではなくて、自ら進んで決定する能力です。
原理の主管性とは、周囲に対して影響を与える作用をいいます。
植物において、種を土に蒔けば、芽が出て、茎が伸び、葉が出るというように成長しますが、その成長する力そのものは原理の自律性です。
同時に、植物は周囲に影響を与えながら成長します。
動物に酸素を供給するとか、花を咲かせて蜂や蝶を呼ぶことなどがそれです。
それが原理の主管性です。
そのように生命を成長という面から見た場合には自律性であり、周囲に影響を与えるという面から見れば主管性になるのです。
そのような生命による生物の成長運動がまさに発展運動なのです。
ところで被造物にはすべて被造目的(創造目的)が与えられています。
生物に被造目的が与えられているということは、生物の中の生命が、その目的を意識していることを意味します。
したがって生物の成長は、初めから目標(目的の達成)を目指す運動なのです。
発展には目標と方向がありますが、それは生命によって定められています。
すなわち植物の場合、種の中に生命があり、その生命が種をして木と果実を目標にして成長するように作用するのです。
また動物の卵(受精卵)の中にはやはり生命があり、卵が成体を目標にして成長するように作用するのです。
ここで宇宙の発展の場合を考えて見ます。
ビッグバン説によれば、約百五十億年前、宇宙は極めて高温で高密度の一点に凝集した状態から大爆発によって生まれ、膨張を始めました。
膨張しながら渦を巻いている熱いガスが、やがて冷えて凝縮し、多くの銀河が形成され、それぞれの銀河の中でたくさんの星(恒星)が誕生しました。
そして星のなかには惑星に囲まれたものもありましたが、その惑星の一つが地球だったのです。
地球上に生命が発生し、ついに人間が現れたのです。
これが今日知られている科学的な宇宙の発展観の骨子です。
ところでこの宇宙の発展は生物の成長(発展)とどのように違うのでしょうか。
生物とは違って、単純な物理化学的法則による発展なのか?
それとも生物の場合のように、生命による発展なのでしょうか?
宇宙の発展を比較的短期間の過程から扱うとき、宇宙の発展は単純な物理化学的法則による発展としか見ることはできません。
しかし数十億年という長い期間を一つの発展過程として見るとき、宇宙は物理化学的法則に従いながら、一定の方向に向かって進行してきたことが分かります。
すなわち宇宙の発展には一定の目標があったといことが分かるのです。
目標とは、宇宙の主管主である人間の出現を意味します。
つまり宇宙は人類の出現を目指して発展してきたのです。
宇宙の発展にこのような方向性を与えたのは、宇宙の背後に潜在していた意識であり、それを「宇宙意識」あるいは「宇宙生命」と呼ぶのです。
植物の種(生命体)が発芽し、成長し、実を結ぶように、宇宙の発展においても、初めに宇宙的な種(生命体)があり、それが今日まで膨張しながら成長してきたのであり、その成長の最終的な実が人間であると見ることができるのです。
つまり果実が果樹の成長の目標であるように、人間が宇宙の発展の目標だったのです。
先には成長は生物だけにある現象だと言いましたが、百五十億年という長い時間の目で宇宙を見れば、宇宙全体が一つの巨大な有機体として成長してきたと見ることができるのです。
発展は一定の目標に向かう、目的をもった不可逆的な運動です。
ところが共産主義は、発展を目的をもった運動であるとは決して言いません。
すなわち共産主義は、発展は事物の内部の矛盾によってなされるのであり、そこには法則性と必然性だけが認められるだけであるといって、目的を否定するのです。
なぜなのでしょうか?
目的を立てるのは意志とか理性しかないからです。
そして宇宙が生まれる前に、目的を立てた理性があるとすれば、その理性はまさに神様のものにほかならないのです。
そうすれば結局、神様を認めざるをえなくなるのであり、神様を認めるようになれば、無神論である共産主義は破綻するために、彼らはどんなことがあっても、目的だけは認めようとしないのです。
それに対して統一思想は、発展において必然性と法則性を認めるのみならず、そこには必ず目的性があることを主張します。
発展の主体は生命であり、生命は目的性をもつ意識性のエネルギーであるためです。
発展における法則性、必然性は、みなこの目的の実現のためにあるのです。
すなわち法則性と必然性は、万物がその目的を達成するように、万物に与えられたものなのです。
唯物論者は宇宙の発展において目的性を否定するために、人間は単に法則の必然性によって生まれた無目的な存在でしかありません。
したがって人間は偶然的存在にすぎず、そのように人間に価値生活や道徳生活はすべて無意味なものになります。
そのような世界は、力の強いものだけが生きる、弱肉強食の世界になるしかないのです。
共産主義は物質を「運動する物質」としてとらえています。
エンゲルス(F.Engels,1820-95)は次のように言っていました。
「運動は物質の存在様式である。
運動のない物質はいつどこにもなかったし、またありえない。
……運動のない物質が考えられないのは、物質のない運動が考えられないのと同じである」
共産主義がこのように、運動を物質の存在様式であると主張するのは、神様の存在を否定するためです。
宇宙を巨大な機械としてとらえたニュートンは、その機械を造り、始動させた存在として神様を認めました。
物質と運動を切り離して考えると、運動は物質以外の他の存在、すなわち神様のような存在によって引き起こされたと見ざるをえなくなるのです。
それで共産主義者達は、そのよう形而上学的な運動観を防ぐために、運動は物質が本来備えている存在様式であると主張したのです。
統一思想から見れば、主体と対象の授受作用によって事物は存在し、運動しています。
したがって運動は万物の存在様式に違いないのです。
そして運動は一個体のみに属している存在様式ではなくて、主体と対象が授受作用するときに現れる現象なのです。
しかし主体と対象の授受作用は、創造目的を実現するための作用です。
したがって運動は結局、創造目的を実現するためにあるのです。
例えば地球は、人間が住むことのできる環境をつくるという創造目的を実現するために、内的授受作用と外的授受作用をしており、そのために自転運動と公転運動をしているのです。
共産主義は運動は物質の存在様式であるというのですが、なぜ物質はそのような存在様式をもつのか、そしてその運動の形態はいかなるものなのかということについて、何も説明していません。
ただ事物は対立物の闘争によって運動していると主張するだけなのです。