人間はまた神の神性に似ています。
神性には、全知、全能、心情(愛)、遍在性、生命、真、善、美、正義、ロゴス、創造性などいろいろなものがありますが、その中でも「心情、ロゴス、創造性」について扱います。
心情は、原相論において明らかにしたように「愛を通じて喜びを得ようとする情的な衝動」です。
心情は、性相の核心、神においても人間においても、心情は人格の核心となります。
したがって人格の完成は、神の心情を体恤するとき、初めて可能となるのです。
神の心情を体恤することによって人格を完成した人間が、まさに心情的存在なのです。
人間が神の心情を継続的に体恤すると、ついには神の心情を完全に相続するようになります。
そのような人間は、自然に人や万物を愛したくなります。
愛さなければ、かえって心が苦しくなるのです。
堕落人間は、人を愛することを難しく感じますが、神の心情と一致すれば、生活そのものが愛となります。
愛があれば持てる者は持たざる者に与えるようになります。
愛は自己中心的なものではないからです。
したがって貧富の格差や搾取などは、自然に消滅するようになります。
そのような愛の効果は愛の平準化作用に起因するのです。
そのように人間が心情的存在であるということは、人間が愛の生活を行う存在であるということです。
したがって人間は愛的人間(homo amans)なのです。
心情は人格の核心なので、人間が心情的存在であるということは人格的存在であるということを意味します。
それは心情を中心として生心と肉心が円満な授受作用を行うようになることを意味し、さらに心情を中心として知情意の機能が均衡的に発達するようになることを意味します。
堕落した人間において、生心の機能が弱く肉心の機能が生心を主管している場合が多いです。
また理性(知的能力)が非常に発達していても、情的に未熟であったり、善を行おうとする意志力が乏しかったりする場合があります。
しかし人間が神様の心情を相続して心情的存在になれば、知情意は均衡的に発達し、また生心が主体の立場から肉心を主管しながら、生心と肉心が円満な授受作用を行うようになるのです。
心情はまた、性相の核心として、知情意の機能を刺激する原動力でもあります。
知情意はそれぞれ真美善を追求する機能です。
すなわち知は認識する能力であって、真の価値を追求し、情は喜怒哀楽を感じる能力であって、美の価値を追求し、意は決意する能力であって、善の価値を追求するのです。
そしてこれらの価値の追求はすべて本来、心情を動機としてなされるのです。
知的活動によって真理を追究すれば、その成果は科学、哲学などの学問として現れます。
情的活動によって美を追求すれば、その成果は芸術として現れます。
意的活動によって善を追求すれば、その成果は道徳、倫理などとして現れます。
政治、経済、法律、言論、スポーツなども、みな知情意の活動の成果です。
したがって心情は、知情意を中心としたすべての文化活動全体の原動力となるのであり、特に芸術活動の原動力になっています。そしてこのような知情意の活動の成果の総合が、まさに文化なのです。本然の世界においては、心情的な人間(愛の人間)が文化活動の主役になります。
このように心情は、文化活動の原動力です。
したがって人間が実現しなくてはならない文化は本来、心情文化だったのです。
それが真の文化であり、神様がアダムを通じて実現しようとされたアダム文化であったのです。
しかしアダムの堕落によって、心情文化は実現されず、今日に至るまで利己心を基盤とした文化、すなわち知的活動、情的活動、意的活動が統一されない分裂した文化が築かれてきたのでした。